介護の構造は、介護の構造協会が執筆しています。
ケアという現象
けあの学校
ケア(care)とは、誰かを支えたり、助ける、癒すことをいう。cure(治療、治癒)とはことなる。医療は、cureとcareの両方に関わり合いがある。介護といった場合、careの領域に位置づけられる。誰かの生活を支え、助け、心や身体の苦痛を取り除くことを目指すものである。しかし、このcareには、自律性が担保されている必要がある。助けてもらう方なのだから、助けてくれる人の言うとおりにしろ!という考え方はできないのである。あくまで、助けてもらう人の思考を尊重していかなければならないのである。
しかし、他者の思考を尊重するということは難しいことであり、実際にはその推測は簡単にできないため、ケアが十分に発揮されずに終わることさえある。自律性を尊重するあまり、ケアの提供が過少となることが危惧されるのである。
そこで重要になるのは、ケアを提供する側とケアを受容する側の関係性が良好である必要があるということである。人間対人間であるならば、この関係性が良好であるならば、ある程度の以心伝心が可能であり、ケアをどのように提供するべきかが推測しやすい。
しかし、そのような関係性が構築できない場合、相手が人間でない方がケアを受容するがわにとって、気楽であることがある。それはある意味、介護関連ロボットの可能性であるともいえる。自分の尊厳を維持していくために必要な機能をロボットが支援してくれるならば、人間との不要な軋轢を排除して生活を続けることができるからである。
共創の視点の大切さ
共創の視点
フレンド・ショアリングは、経済安全保障は保護主義によってのみ実現可能という主張への反論でもある。国内生産や少数の国との取引にだけ限定してしまえば、貿易の効率向上を著しく損ない、アメリカの競争力とイノベーションに打撃を与えるだろう。私たちの目標はリスクのある国との取引やサプライチェーンの集中から脱却し多様化を図ることだ。フレンド・ショアリングは閉鎖的ではなく、先進国に加え新興市場や途上国におけるアメリカの貿易パートナーも含めたオープンなものになる。
技術経営の手帳 · 技術の統治と人間の統治
技術(technology)は、人類に様々な可能性を与えてきた。その範囲と影響力の大きさは限度がなくなりつつあるようにみえる。
しかし、技術は自らの意思を持つわけでも、それ自体で成長したりすることもできない。技術は統治することもできる存在である。
技術が人類によって統治可能だからといって、その統治を行えるというわけではない。
技術は、そもそも知識である。知識は人間と切り離して存在することはできない。
そして、技術は科学とは異なる。技術はあくまで科学知識を人間の特定の目的のために再構築したものである。
故に、技術は二重の意味で人間社会から切り離すことができない存在である。
このように人間と切り離すことができないという性質から技術は統治が困難になっている。人間は不可思議の塊で、さらにその人間が複数人集まれば週癌・社会が形成される。
人間一人でも予測や統治が難しいが、社会という単位になるともはや統治は部分的にしかできない。完全に人間や社会を統治するという幻想を持つのが全体主義である。
統治の対象が人間・社会であれば、部分的にでも統治できているのであるから問題ないが、技術は完全統治できなければ問題が生じる。
なぜなら、技術は一粒でも取りこぼせば社会全体、人類の命運を途絶えさせるような力を持っているからである。
技術を統治することは今後、人類の歴史を永らえさせるために構築せねばならない知識なのだ。